漱石記念漢詩大会

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第十回漱石記念漢詩大会


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夏目漱石について


夏目漱石の漢詩文を考えるとき、よく次の文章が引用されます。

餘兒時誦唐宋數千言喜作爲文章或極意彫琢経旬而始成或咄嵯衝口而發自覺澹然有撲氣窮所謂古作者豈難臻哉遂有意 干以文立身

(余、児たりし時、唐宋の數千言を誦し、喜んで文章を作為(つく)る。或は意を極めて彫琢し、旬を経て始めて成る。 或は咄嗟(とっさ)にロを衝いて発し、自ら澹(たん)然(ぜん)として撲氣あるを覚ゆ。窃(ひそ)かに謂う「古の作者、豈(あに)臻(いた)り難からんや」と。 遂に文を以て身を立てるに意あり(明22・9「木屑録」)

漱石は幼い時から漢詩文に慣れ親しんでいたことがよく分かります。

また漱石が漢文漢詩の基礎を体系的に学んだのは、明治14年4月(漱石14歳)からの三島中洲創設の漢学塾・二松学舎においてです。 当時のことは、談話「落第」(明治39.6)の中でも回想されていますが。「元来僕は漢学が好きで随分興味を有って 漢籍は沢山詠んだものである」という一文が印象に残ります。

 漱石が在学した当時の二松学舎の教科内容等については、佐古純一郎「漱石の漢詩文」の中でくわしく述べられていますが、注目すべきは、作詞文が必修科目であり、毎月3回、それも5日、15日、25日と決められていて、文1題と詩2題以上 が出題されていたということです。漱石の二松学舎在学が、たとえ1年間だったとしても、こうして相当数の作詩文の 添削指導を受けていたことになります。しかも、「当時は三島中洲が直々に学生の詩文に対して添削指導した」ということ ですから、漱石は当代きっての漢学者によって、作詩文の作法を習得する機会に恵まれたということになります。

明治22年、漱石が第一高等中学校本科第一部(文科)で英文学を専攻する学生になったときから、正岡子規との交友がはじまった と言われています。子規はその豊かな文学的才能を駆使して「七艸集」を完成し、友人に回覧して批評を求めたのです。 それに対して漱石は「七艸集評」を書き、ここで漱石の雅号が始めて使われたわけですが、子規はこれを読んで漱石の漢文の 知識の素晴らしさに感心し、これを契機として二人の校友が発展していくことになります。

明治22年8月に漱石は学友四人と房総旅行をし、帰京してから十日足らずで書き上げた漢文の紀行文集が「木屑録」です。全篇およそ 五千言の長文であり、漱石はそれを、正岡子規をただ一人の読者に想定して書いたと言われています。そして郷里松山で静養していた子規 に送ってその評を仰いだのです。

子規は「木屑録」を読んで、漱石の漢文の優れた才能に驚嘆の念を禁じえなかったのです。そして「木屑録評」を書きました。 その中で、次のように絶賛しています。

嗚呼吾兄修何學得何術而至此域耶古人讀萬巻書又為萬里之遊眞如吾兄所謂雖然吾兄未讀萬巻書也而其所作詩文未曾不得古人 之眞髄吾兄未為萬里遊也而所記詩文未曾不豪壮雄健都與大山高與江河長嗚

(嗚呼(ああ)、吾兄は何(いず)れの学を修め、何れの術を得てこの域に至しや。古人は、万巻の書を読み、また万里の遊(ゆう)を為せりと。 真(まこと)に吾兄の謂う所のごとし。然りといえども吾兄は未だ万巻の書を読まざるなり。しかもその作りしところの詩文はいまだ曾(かつ)ては古人の 眞髄を得ざるなり。吾兄は未だ嘗ては万里の遊を為さざるなり。しかも記すところの詩文、いまだかつて「豪壮勇健で泰山 のごとく高からず、江河のごとく長からず」ということなし。

現代語訳

ああ、漱石兄よ。そなたは、いかなる学問を修め、またいかなる修辞法を習得してこのような境地に到達できたのか。古人は 文書の道を身につけるためには、万巻の書を読み、万里の旅を経なければならぬと語り伝えてきた。それは、そなたの到達した 境を言い得てぴったりである。けれどもそなたは未だ万巻の書を読破していない。それでいて作り上げた詩文は、これまで古人が作った詩文の 眞髄に徹している。またそなたは、これまでの古人のように万里の旅をしたことがない。それでいて記した詩文は、古人が 記したどっしりと勇ましく泰山のように高く、長江黄河のように長く感ぜられる。

このようにして、漱石と子規の校友が始まるわけですが、この交友は両者の文学にとって極めて大きな影響を与えたといえるでしょう。 幣原坦は「若し子規がいなかったなら、漱石は、或いは学者としてのみ、その一生を過ごしていたのかも知れなかった。その意味では、 漱石と子規との交際は、作家漱石にとっては、ほとんど運命的なものであった」と述べています。

現在、漱石の漢詩は207首が遺っています。





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